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時子編
〜愛情!劣情!下剋上!〜
◆◆


町の路地にひっそりと佇む小さな喫茶店「Times」も日曜日はお休み。
しかも今日はただの日曜日ではなくバレンタインデーなので、女店主の時子も張り切って……

「ね、ねぇ優君……襲っちゃってもいいかな?」
「……それを尋ねた時点で、『襲う』という行為は成立しないんじゃないですか?」

張り切って、ふわふわカーペットの上で年下の恋人、優を襲おうとしていました。
その割にビクビクしているのは時子の方で、優はいたって冷静……というか、いつも通りの真顔です。
真顔で冷静に返してきます。

「大体、襲うのは僕の担当のハズですが」
「今日だけは譲ってよ……ダメ?」

いつもならこんな大胆な事は言わない時子ですが、今日の彼女は違いました。
なぜなら今日の時子には、夢のお告げがあったのです。
誰だか分からないけれどとても楽しい女の子たちと話す夢で
彼女たちと誓った『バレンタインは女が攻める!』という段取り……
時子も何故だか実行してみたくなったのです。
それでも、普段は優にペースを握られっぱなしの時子なので、攻めの姿勢も勝率低めの低姿勢ですが。
しかしながら今日はバレンタイン。バレンタインの神様は女の子の味方です。

「……まぁ、普段……時子さんの家やソファーやDVDレコーダーにはお世話になってるわけですし……」
「優君、時子さん本人!時子さん本人にもお世話になってるよ?!」
「今日くらいは、お好きになさってください」
「へっ、えっ!?」

なんと!優はあっさりと承諾してカーペットの上にコロンと仰向けになってしまいました。
自分で言い出したものの上手くいきすぎて時子も驚きを隠せません。
呆然と優を見つめていると、優が強気な笑みで見上げてきます。

「襲うと言っておいて全然動けないじゃないですか。無理なんですよ、時子さんの分際で……っん!?」

優が言い終わる前に彼の唇は時子の唇で塞がれていました。
それは一瞬の口づけで、しかし時子は優に覆いかぶさったまま言います。

「なっ、生意気言うとキスしちゃうから……」
「――生意気なのは貴女でしょう……」
「あ!言った!はい、もう一回!」
「ん、ぁ……!」

今度は少し深く、少し長く、時子は優君の唇を奪います。
お互い離れた時には優がぼんやりとしていました。
その無防備な表情がだんだん時子を強気にして……

「優君、気持ち良さそうだね」
「……まさか。『襲う』=キスという、貴女のヘタレっぷりに呆れていただけです」
「まだキスのお仕置き、足りないのかな?」
「っ、う……んんっ……」

ちゅくちゅくと音がするほど深い、濃厚な口づけで優を責め立てて
しかも優の悪態もなかなか減らないとくれば……
舌がもつれるような、甘く濡れたキスが一方的に繰り返されるだけの時子の独壇場になってしまいました。
最初は強気だった年下の恋人も、だんだん力が抜けていきます。

「と、時子さ……やめっ……同じ事ばかり……芸の無……んっ、んむぅっ……!!」
「んっ、ちゅっ……涙目になってるよ?優君ってこういうキス好きだよね。知ってるんだから……
もしかして、もっとキスしてほしくてワザと言ってる?」
「ふざけっ……はぁ……もうっ、やっ……」
「うふふっ、逃げちゃダ〜メ。生意気なお口はまだまだお仕置きしてあげるよ」

逃げるように横を向く顔を両手でふわりと軌道修正して、時子はまた唇を重ねます。
そうすると優は潤んだ目をぎゅっと閉じたり、トロンと開いたり……普段の無表情が嘘のよう。
ああ、この優君なら私勝てるかも……そしてそのままお尻ペンペンしちゃったり……
と、思わず有頂天になってしまう時子に、運命は残酷に働きました。

くしゃり。

運命の動いた音は乾いた紙の音。
優の手が、落ちていた紙切れに当たった音でした。
自然と二人の視線はその紙切れに注がれて、紙切れの文字を追います。

『●バレンタインデーは優君をお尻ペンペンしてお仕置きデ―。
●お仕置きする時のキメ台詞→眼鏡は外しといた方がいいね。涙で汚れちゃうから……』

それを見た時子と優、二人の表情が、それぞれ違う意味で固まりました。

「時子さん、このメモは何ですか?」
「え?いや、違う……よ……?」
「何ですか?」

さっきまでふにゃりとした表情だった優は今、固い岩……いや、氷の表情で背筋も凍る怒りを感じます。
時子はただ冷汗をたらして、必死に言葉を探しますが……

「ほ、ほら!逆さに見ると本当のメッセージが見える暗号の類とか……!」

時子の言葉に優はメモを拾い上げ、逆さにして眺め……

グシャッ!!

「ぎゃ――――っ!!」

時子が驚いて悲鳴を上げるほど勢いよく、容赦なく、そのメモを握り潰しました。
悲惨に丸まった紙がポトリと床に落ちるのをビクビク見つめる時子。
次に見つめた優の顔は無表情でしたがやけに恐ろしくて、時子はそれだけで泣きそうでした。

「時子さん、バレンタインデーって何のデ―かご存知ですか?」
「いや……あの……」
「ご存知ですか?」
「……私がお尻ペンペンされてお仕置きデ―かな?」
「よくご存じで」

運命はかくも残酷に、時子を優の膝へ誘ってしまったのです。
後に残るは脱ぎたてペールグリーンの下着と
恋人たちのロマンチックな空間を切り裂く打音……

バシッ!バシッ!バシィッ!!

「痛い!ごめんなさい!優君痛いよ!」
「珍しく積極的だと思ったらこんな陰謀があったなんて……随分下らない計画を立てましたね時子さん。
あまりに下らないので、怒りを通り越して一周して怒りしか感じません」
「ご、ごめん!君がすごく怒ってるのは分かったよぉ!ごめんなさいぃ!きゃんっ!」

膝に乗せられた瞬間からずっと謝っている時子ですが優は聞く耳持たないようです。
打たれるたびにジンジンした痛みが広がって、時子はただ足をばたつかせて許しを請います。

「やぁあんっ!痛いよ優くぅん!ごめんなさい!」
「話しかけないでください!気が散る!」
「散ってよ!こんな事に熱中しないでぇっ!!あぁあんっ!」

バシ!バシ!バシ!

いくら謝っても喚いても、許してもらえる兆しも手加減してもらえる兆しも見えません。
そのうちまともに返事もしてもらえなくなって、時子の悲鳴だけが大きくなっていきます。

「は、ぁ、優くっ……あぁ!!許して!もう嫌だ!いやだよ……!!」

痛みに歯を食いしばって、必死に優に呼びかけても返事がきません。
今日は本当に怒ってるのかな……?時子はだんだん寂しくなってきます。
痛みと寂しさで目に涙が滲んできました。

「はぁ、はぁ、ごめっ、なさい……!あんっ!優君、お願いだよ……!もっ……勘弁してぇ……!!」

バシ!バシ!バシ!

「あ、あぁっ!何か……言ってよ……ぉ!やぁあっ!!」

お尻ももう真っ赤です。
本当は悲鳴を上げるだけで精いっぱいなのです。
それでも頑張って呼びかけていたと言うのに……!

バシィッ!

返事よろしく帰ってきたのは最上級の平手打ち。

「やぁああっ!そんな返事の仕方があるかぁっ!!うわぁああんっ!優君ひどいよぉぉっ!」

とうとう時子は泣きだしてしまいました。
その瞬間頭が真っ白になって、もう優にまともに話しかける事もせずにひたすら泣いていました。

「うわぁあああんっ!うわぁあああんっ!」

バシ!バシ!バシ!

「痛いやだぁああっ!!あぁあああんっ!」

痛い、嫌だ、苦しい、許して、助けて!
浮かんだ単語は全部泡のように消えて、ただ泣く事しかできません。
長く叩かれて心も体もヘトヘト……何も考えられませんでした。
そんな時――

「……時子さん、辛そうですね」

やっと聞こえた優の声。
でもあまりに他人事のように淡白で、時子は少しムッとします。

「辛いよ!最悪だよ!!最悪に辛いに決まってるでしょぉっ!ひっく、何言ってんだよ今さらぁっ!!」
「ざまぁみろ」
「ばかぁあああああっ!!うわぁあああんっ!!」
「バカって言う方がバカですよ。本当ざまぁみろですね。
せっかくのバレンタインデーに、僕を最悪に辛い目に遭わせようとしてたんでしょう?貴女は」
(え……?)
「僕はただ貴女のコーヒーを飲んで、一緒にチョコレートケーキを食べてDVDを見て、
ゆっくり仲良く横になって……そういう日にしたかった」

優の言葉に時子はハッとします。
私が今されている事は、私が優君にしようとしていた事……?
こんな、痛くて辛い事を?せっかくのバレンタインデーに?
優のどこか悲しげな声が時子の胸を締め付けます。

「でも貴女は僕を痛めつける日にしたかったんですね。日ごろの恨みですか?」
「ちがっ……違う……んっ!!」

時子は慌てます。バシバシ叩かれるたび、お尻の他に胸も痛くなって
さっきまで真っ白だった頭に急に色々な事が駆け巡りました。

「心当たりが無いとは……言いませんけど……」
「違う!あ、ぁ、優君、違う!ごめんね!そんなつもりじゃ……うぁ!!」

どうしよう!どうしよう!せっかく優君が楽しく過ごしたかったバレンタインデーなのに!
私が……変な事考えたせいで台無しにしちゃった!!
一気に後悔が押し寄せて、時子は余計涙が出てきました。

「ごっ、ごめんね……ぐす、優君が……楽しみにしてくれてたのにね……
ごめっ……私がバカたっだね……ごめんね……」

お尻が痛くて必死で謝っていた時とは違って、時子は本当に心の底から謝りました。
悪気はなかったとはいえ優の気持ちを踏みにじってしまった事が本当に悲しかったのです。
恨まれてるかも、なんて思わせてしまった誤解を解きたかったのです。

「優君に、う、恨みなんか持った事ないんだよ?本当だよ?はぁ、ぁ……
優君は口は悪いけどいい子だもんっ……んぁ、知ってるから……!!」
「何ですか。今頃誠意をもった謝罪なんて……」
「ごめんね……君の気の済むまで、お仕置きしていいから……」

バシィッ!

「あぁあっ!ぅ……っ……!!」

時子の言葉に応えるように強く叩かれましたが、時子は耐えます。

「……さっきみたいに許してって泣きわめかないんですか?」
「悪いの……私だから……」
「もっと強く叩いても?」
「いいよ……」

バシィッ!バシィッ!バシィッ!

「いやぁああっ!あぁっ、ごめっ……嫌じゃない!ああっ!ごめんね!うぅっ……!!」

強くなった平手打ちは、本当は痛くて怖くて仕方が無かったけど、時子は頑張って耐えていました。
悪いのは自分だと思っていたから。
お尻は真っ赤で限界でも、本当に優の気の済むまで耐えようと思った時子なのです。
たとえ何があっても

「本当に我慢するんですね……ねぇ時子さん、だったらアレ使っていいですか?オバケみたいなラケット」
「……い……い……」

何があっても、悪いのは私だから……

「いい……よ……」

本当は嫌で嫌で堪らないけれど。
今すぐ「やめて」って泣き叫びたいけれど。
泣きそうな声でそう言った時子に、優の返事はしばらく来ませんでした。
動く気配もありません。

「優君……?」
「飽きました」
「え?」
「時子さんをお仕置きするのは飽きました。
オバケのようなラケットを取りに行くのも正直面倒です」

ポカンとする時子を、優はさっさと膝から下ろしてしまいました。
時子はまだわけのわからない様子で優を見つめます。

「もういいの……?」
「これ以上は時間の無駄ですから」
「そっか……本当にごめんね……バレンタインデー、やり直そうね?」
「……時子さん……今から、一言でも喋ったり笑ったりしたら弾き飛ばします」
「急に何ッ!?」

驚く時子の手を強引に取った優はそのまま時子の手を胸の前で抱きしめます。
そして俯いて固く目を閉じて、独り言のように語り始めました。

「いつも意地悪をしてごめんなさい。
僕はあまり人に好かれるタイプの人間じゃないので、貴女も逃げていかないかと思って
つい意地悪をして試してしまうんです。やり過ぎた日は家でちょっぴり後悔しています」

(優君……?!)

思いもよらない突然の告白……
時子驚いている間にも、優はつらつらと言葉を紡ぎ続けます。

「貴女が好きです。貴女は僕の世界を温かく包み込んでくれた。
年の差があっても、すでに愛する人がいても……それでも僕は貴女を好きになる覚悟を決めました。
だから……」

優の手に、力がこもるのが伝わってきました。
まるで彼の強い意志のように。

「二番目で構わない。僕を、愛してください……時子さん……」

祈りのような言葉でした。
やっと開いた優の目は、珍しく不安そうに揺らいでいて……
時子は無意識に優の手を強く握り返します。

「優君、二番目なんかじゃない!一番だよ!この世で一番大好きだよ!?」
「あの世も入れたら二番目でしょう?」
「もう!意地悪だね!大丈夫……あの世を入れても一番だよ」

今度は時子が優の手を胸の前で抱きしめました。
優は少し戸惑ったように眉をしかめます。

「そんな事を言うと、前の人が化けて出ますよ?」
「大丈夫だよ。お父さんも優君の事好きだから」
「男の亡霊に好かれても嬉しくありません」
「私は嬉しいよ。優君が私の事好きになってくれて、嬉しい。ありがとう」
「論点がずれてますよ。時子さん」
「ね、嬉しいね!優君」

固い表情の優でしたが、時子があまりにも幸せそうに笑うので――

「……嬉しい、です……」
「嬉しいね!」

時子にしか分からないくらい微かに笑った優。
でも時子には優の笑顔が分かったので、それで二人は幸せでした。

それから二人は仲良くバレンタインデーを仕切り直して……
すごく「嬉しい」、二人のバレンタインデーでした。











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